« ドレイクの方程式 | トップページ | オランジュリー美術館コレクション »

2019年10月22日 (火)

百舌鳥・古市古墳群

Swea

https://dot.asahi.com/wa/2018102300045.html

 学士会午餐会で、白石太一郎国立歴史民俗博物館名誉教授の「百舌鳥・古市古墳群の語るもの」という講演を聴いた。この7月にこれらの古墳群は世界遺産に指定されている。一枚目の写真は、百舌鳥古墳にある日本最大の大仙陵(仁徳天皇陵)で、前方後円墳は長さは約500mほどもある。古墳は日本では3世紀後半から7世紀にかけて作られた権力のある人の墓だが、この古墳時代は卑弥呼から飛鳥時代の間で、日本史では特に空白が多い謎の時代。また、古墳への立ち入りは宮内庁により厳しく制限されていて、誰が埋葬されているのかはほとんど判っていないらしい。

Rsadbrpjjl5xtwwnq5r7b

https://yukaliku.com/mozuhuruichi-kohungun-zintokutenou-sekaiisan.html

 百舌鳥・古市古墳は、写真2枚目のように大阪南部の大和川周辺に位置する。日本で2番目に大きい誉田御廟山(応神天皇陵)は、古市古墳の方にある。古墳は一般に権力者の本拠地の近くに造られるので、その場所の推移をみると、時の権力の移動が推定できるそうだ。

Photo_20191022123401

kousin242.sakura.ne.jp/005/歴史/日本史/地図とデーで見る日本史①/

 3枚目の図は、近畿地方の巨大な古墳の推移を示すもの。縦軸は年代を、マークは古墳のサイズを示す。紀元200年から400年の間は、卑弥呼のヤマト政権があった奈良東南部の大和に巨大古墳が集中しているが、400年以降になると、河内(古市)と和泉(百舌鳥)へ巨大古墳が移行しているのが分かる。

 この大和から大阪南部への権力の移動は、東アジアの情勢が大きく影響していると。4世紀、中国北方の鮮卑が朝鮮半島の高句麗を圧し、高句麗は百済を攻めたが、百済は倭国と同盟して対抗した。倭国は当時馬がなく、百済の指導で馬や馬具を生産し、併せて陶器や文字などの文化も導入したが、呪術的・宗教的性格の強いヤマト王権ではこれらに対処できず、自然、外交・通商に長けた大阪湾岸の河内‣和泉地方が主導権を握ることになったという。

Kofun_bara

web1.kcn.jp/sofia/kodai/contents_204.htm

 ところで、第4図は全長100m以上の大型古墳の全国分布をしめす。中国の皇帝陵は広い中国でもその当時の首府近傍一か所に存在するが、日本は方々に大型古墳があるのが特徴。特に岡山の吉備には強大な勢力があったもよう。関東にも結構な数の大型古墳が見られるが、これらはヤマト王権が強大な首長の連合体制のもとにあったことを示唆するそうだ。

 ネットによれば、古墳にはいろいろな形があるが、やはり大型の主流は前方後円墳で、前と後ろに二つの丘があり、1-3重の濠で囲まれていて、内側は素焼きの円筒埴輪が取り囲んでいる。前方から後円に向かって通路が伸び、後円部のなかに大きな岩盤を組み合わせた石室がつくられ、棺や副葬品が埋葬されていた。造営当時は盛り土の上は葺石で覆われていた。従って、今のように林ではなく、人造物であることを明示していたらしい。大林組が仁徳天皇陵建設の労働力を当時のままで推定すると、一日2000人で15年8か月、建設費は現在価格で800億円と。

 なお、大小合わせた日本の古墳数は16万基を越え、兵庫県1万7千、千葉県と鳥取県1万3千、京都府と福岡県1万1千などが大口。関東は3万8千で、大型古墳の集中地である関西より数だけは多いそうだ。つまり、権力中枢は関西にあったが、関東も政権を支えていた有力地域だった?  わが家の近くの「鍛冶ヶ谷市民の森」にも横穴古墳群があり、5-7世紀の豪族の墓で、吉見百穴ほどではないが、これほど揃っているのは珍しいらしい。2014.8.17の本ブログに関連記事あり。

joudeki.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-d2df.html

 

« ドレイクの方程式 | トップページ | オランジュリー美術館コレクション »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« ドレイクの方程式 | トップページ | オランジュリー美術館コレクション »

無料ブログはココログ
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30