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2017年3月26日 (日)

飛騨紀行

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http://www.rurubu.com/pref/index.aspx?KenCD=21
 
 今日の街道をゆくは「飛騨紀行」。岐阜県の北半分が飛騨国で、南半分が美濃国である。飛騨地方は、元来、地理的・気候的・経済的・文化的に日本海の越中富山に近く、両者をまとめて飛越地方とも呼ばれるらしい。ネットによれば、明治初年に美濃と合体して岐阜県になったのは、一県のコメ産出規模を約60万石単位とする官僚の数合わせに過ぎないと。
 
 飛騨は過疎地で、奈良時代は庸調が免除された。代わりに大工(飛騨工)が徴発され、都の宮殿や寺社などを造った。これが、後世の木工産業発展の元になったが、司馬は各地で「飛騨の匠」の技の跡を賞賛する。
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https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E4%B8%83%E9%87%8C-107916
 
 1986年に司馬一行は、下呂温泉下流の中山七里(写真2枚目)から、飛騨地方へ入った。ここは、木曽川支流の飛騨川の28kmに渡る奇岩の険しい渓谷。従来、飛騨から美濃に抜けるには、5つの峠を越える必要があったが、秀吉時代に中山七里の道が開通した。ここは景色は良いが、旅の難所でも知られたらしい。
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http://matinami.o.oo7.jp/tyubu-tokai1/takayama.htm
 
 下呂温泉に泊まって、更に60km北上すると高山である。平成の大合併で、高山市の面積は、日本一となり、香川県や大阪府より広いそうだが、飛騨の小京都と呼ばれ、江戸時代からの見事な街並み(写真3枚目)が残る。秀吉の命により金森長近が飛騨高山城を築き、高山の城下町を整備したが、6代にわたって金森家は、産業振興や町人文化の発展に力を入れて、高山を有数の豊かな町にしたらしい。
 
 ところが、領内の神岡鉱山(亜鉛、鉛、銀)と、豊富な森林資源に目を付けた幕府により、元禄のころ領地替えとなり、天領となってしまった。司馬は、高山が未だに見事な都市の姿を残しているのは、天領だったからとの説に納得せず、あくまで春慶塗や本膳崩し料理などで有名な金森宗和など、金森家の人々の努力の賜物であるとしている。
 
 高山のさらに10km北の国府町を訪問し、奈良時代から続く赤かぶの漬物を賞味した。また、守護代の姉小路氏の本拠地であった5km北の古川の町へ行き、全く観光地化していない歴史的な街並や、未だに江戸時代から続く和ろうそく屋に驚嘆している。
 

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