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2017年1月 9日 (月)

奥州白河・会津のみち

Gty
 
http://www.geocities.jp/aidusl/aiwaka208.html
 
 今日の街道をゆくは「奥州白河・会津のみち」である。特に、平安朝の京の貴族たちは、「奥州」への憧れが強かったらしい。わざわざ、「奥州白河」というタイトルを付けるあたり、大阪人の司馬も同様であろうか。
 
 司馬は、1988年に東北新幹線の新白河駅に降り立った。東京からわずか1時間25分の通勤圏であるのに驚く。白河は、能因法師(988-1050)の、「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」の関で有名である。ただ、この関跡は江戸時代のものはあるが、それ以前の跡ははっきりしないそうだ。何しろ、奈良時代に意味があった関であり、その後は大和の勢力圏は遥か北方にまで延びて、その重要性が薄れたと。
 
 ところで、836年、白河南方、関東との境の八溝山で、大量の金が出た。その前の749年、東北では初めて宮城で金が発掘され、東大寺の大仏の金メッキに使われている。戊辰戦争のころ、西軍から「白河以北、一山百文」と言われたが、江戸時代より前は、たいへん裕福な土地であったと言う。東北の砂金は、空海などの遣唐使の持参金としても使われたらしい。
 
 さて、会津に行く。福島県は大阪の7倍も広い。天気予報も、浜通り、中通り、会津盆地と全く違う。特に会津は越後圏であり、井上やすしいわく、「会津は東北じゃないんです」。司馬が、会った人に「福島県人ですか」と言うと、「いや、会津です」と答えた。会津の誇りと屈折は、大ドイツ統一前のプロイセンに似ていると言う。NHK大河ドラマ「八重の桜」のお蔭で、幕末の会津藩の悲劇は、広く皆の知るところとなったが、一藩のみがここまで悲惨な歴史をたどった原因に、司馬は三点を挙げている。
 
 一つは、藩祖の保科正之(1611-72)である。風儀(士風)を大事にし、家訓15箇条を残したが、宗家(徳川)と運命をともにすべしとある。また、武士の禄を平準化したので、結束力の高い藩風が生まれ、教育水準も高かったので、幕府から体よく北方警備などにこき使われた。京都守護職の貧乏籤も当たるべくして当たったという訳である。
 
 二つ目は長州藩である。とりわけ元気が良かった新選組は、会津藩の意向とは関係なく、幕府から会津藩の傘下に押し付けられた。問題は、新選組が大いに長州藩士を殺戮したので、会津が長州の恨みを一身に負ったのである。会津若松の鶴ヶ城(写真)攻撃の際は、これが残忍な報復となり、戦い終わっても、斗南藩という下北半島の荒野に、いわば藩ごとの流刑措置を受けた。行間から、司馬の「長州嫌い」が読み取れる。
 
 三つ目は、藩主松平容保(1835-93)の愚直ともいえる真面目さである。政治的駆け引きに長け、逃げのうまい徳川慶喜に、上手に使われ翻弄された。革命は血を見るまで収まらず、結局、慶喜に代わって会津が血祭りとなる。特に、容保は孝明天皇の親書2通を死ぬまで肌身離さず、天皇との秘密保持約束を守ったが、これがもし公開されていれば、会津攻めはなかったと司馬は悔しがる。

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