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2016年12月21日 (水)

脱藩のみち

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http://ameblo.jp/hiho-haiko/entry-12192798948.html
 
 今日の街道をゆくは、「檮原街道(脱藩のみち)」である。檮原(ゆすはら)町と言うのは、上の地図のごとく、高知県北西部の山奥にあり、愛媛県(伊予)に抜ける街道が通る。幕末に多数の土佐藩士がこの街道を通って脱藩したと言う。なかでも、坂本龍馬がもっとも有名である。
 
 司馬は、何故、土佐は脱藩者が多かったのか分析している。その原因は戦国時代にまで遡る。戦国時代の土佐20万石は、長宗我部一族が支配していたが、関ヶ原で西軍に与したために、秀吉一派ながら家康のご機嫌をとった掛川5万石の小大名山内一豊にとって代わられた。
 
 しかし、一豊が抱える武士団は大藩を押さえるには数が少なく、「一領具足」と呼ばれた長宗我部旧臣の反抗に備えるためもあり、大量の関西浪人を新規に抱えた。ここで、占領軍の上士と、その後、新田開拓などで農民から取り立てられた、旧長宗我部派の郷士との決定的な溝が生まれたと言う。
 
 坂本龍馬など、幕末に脱藩したのは、ほとんどが藩の上層部と対立した郷士である。薩摩や長州などの志士が、自分の藩を背景に活躍できたのに、土佐志士は脱藩した浪人で、しかも土佐藩がぎりぎりまで佐幕だったので、新選組などの格好な餌食となった。「土佐人の屍体は、薩摩のイモ畑のこやしになり、長州のミカン畑のこやしになった」と言われるそうだ。維新以降、薩長に果実を食べさせたと言うこと。
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http://mantentosa.com/sightseeing/yusuhara/senmaida/index.html
 
 ところで、檮原は、土佐藩の関所があった場所だが、歴史的に伊予の経済的・文化的な影響下にあった所とか。また、檮原町には標高220~1455mという高低差があり、山の斜面を利用した農耕作が発達した。
 
 なかでも神在居(かんざいこ)では、多数の田が重なっていることから千枚田(写真)と呼ばれると。おまけにカルスト台地(石灰岩)であり、土が少なく水は遥かな谷底から運ぶと言う。司馬は、「棚田は農業が築き上げた日本のピラミッド。全国を合わせれば、万里の長城に匹敵する労力」と感嘆することしきり。

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