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2016年11月19日 (土)

オホーツク街道

Isekimap2
http://www.ok21.or.jp/taikenkikou4/01iseki-01.htm
 
 今日の街道をゆくは「オホーツク街道」。このような街道が北海道にあるのではなく、司馬の命名である。ご承知のように、オホーツク海は、サハリン、千島列島、北海道などに囲まれた大きな内海だが、この沿岸地方に、5-9世紀頃、オホーツク人と呼ばれる人々の謎の文化があり、図の●点のような各地で遺跡が発見されているらしい。司馬は、このオホーツク文化遺跡を、1991年秋と1992年正月の2回に分けて訪ねている。
 
 最初に発見されたのは、1913年、網走のモヨロ貝塚。発見者で21歳の米村喜男衛氏は、青森の少年時代からの考古学ファンで、東京に出て床屋になっても、東大の人類学教室に出入りした。アイヌの調査で、たまたま網走に来て、崖の巨大な貝殻層を発見した。驚いたことに、土器の模様などは、従来の縄文式と全く異なり、夥しく発掘された人体の骨は、どれも異常に大きかったと言う。
 
 日本列島は、縄文時代が1万年続いたが、特に東日本は海陸の食物が豊富で、世界で最も自然環境に恵まれた狩猟地域だったらしい。ところが、紀元前3世紀ごろ、稲作と鉄器文化を持った弥生人が西日本に上陸し、順次、縄文人は混血するか北へ追われた。特にアイヌ人は北海道を住処としたが、北海道のオホーツク沿岸には、5世紀ころから、アイヌとは全くルーツが異なるオホーツク人が住んでいたのだ。当然、両者の間で戦いが起こり、あるいは混血して、オホーツク文化は9世紀ごろ姿を消したそうだ。
 
 そもそも、オホーツク人とは何者か? これは依然として謎だそうだが、司馬は、サハリンの腹のあたりに、大陸沿岸地方から流れ込むアムール川(黒竜江)があるが、その下流に住む少数民族ではと推定している。NHKのDVDで見ると、サハリンのユージノ・サハリンスク(豊原)の博物館には、モヨロ貝塚で発見されたのと同じ土器が陳列されている。
 
 なお、司馬はサハリンにも多くのページを費やしていて、NHKは近くサハリン訪問の予定だったが、亡くなったとしている。その幻のタイトルは「韃靼街道」とか。冬になると氷で陸続きになる間宮海峡は、欧米ではタタール海峡と呼ぶが、中国語では韃靼海峡である。この韃靼海峡の北部に、アムール川が大量の真水をオホーツク海に流し込み、これが内海のオホーツク海に流氷を生むらしい。
 
 オホーツク街道の秋の旅では、網走のモヨロ貝塚から始まり、北西20kmの能取湖とサロマ湖の間の常呂遺跡へ行った。一方、正月の旅では、遥か北へ行って稚内近く宗谷のオンコロマイ遺跡から、東南に海岸線を下りて猿払を経て、枝幸の目梨泊遺跡や、紋別で雪のオムサロ遺跡を訪問。再び、網走を通り過ぎて、斜里に行き知床のウトロまで足を延ばしている。その間、考古学関係の学者の業績紹介や、アイヌ研究の事例紹介が延々と続く。

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