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2016年9月30日 (金)

仙台・石巻

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http://teizan-canal.com/teizancanal/gaiyou/
 
 今日の街道をゆくは「仙台・石巻」である。1985年、関西育ちの司馬は、大阪から仙台直行のYS11に乘り、甲斐側上空から富士山を見て、その秀麗さに感動した。戦国時代、伊達政宗が小田原攻め最中の秀吉に恭順の意を示しに来た際も、甲斐側から同じように富士を仰いでいる筈と。
 
 仙台・石巻はまさに伊達政宗の世界である。「遅く来た男」であった政宗は、全東北、北関東に食指を伸ばし、秀吉がもし小田原の北条氏に手こずるならば、全国制覇をも目していたと言う。だが、秀吉の素早い動きに機先を制せられ、山形・福島などを取られて、結局は宮城一国に封じ込められた。
 
 以降、政宗は宮城一国内の経営に精を出し、公称62万石を江戸期中に実収100万石まで増やしたと言う。上図のような大規模な貞山(ていざん)運河を海岸沿いの内陸部に掘り、コメを効率的に集めて江戸に送ったらしい。当時、江戸のコメの1/3は仙台米だったと。また、東北第一の大河、北上川の流れを変えて、石巻近辺に河口を付け替え、石巻を東北第一の港にした。
 
 だが、仙台平野が沃野であったので、コメが良く取れ過ぎ、コメだけに頼る経済になってしまった。江戸時代、西日本では各種商品経済が盛んになったが、仙台藩は袴の仙台平以外は何もなかったそうだ。また、藩の重臣たちが、一国一城の城持ちで、藩内に小藩が多数割拠する形となり、進取の気概が損なわれたと。
 
 仙台市内の政宗建立の大崎八幡宮を訪問している。ここは秀吉が好んだ派手な桃山風の建築だが、桃山風はその後の家康時代の権現造りに駆逐されて、すっかりその姿を消したと言う。現在残っているのは、仙台と北野神社くらいとか。
 
 ところで、大阪と比べると、仙台市内のビル街は整然としていて、品挌があると言う。横浜同様に仙台は米軍の接収期間が長かったのが、反って幸いしたらしい。特に、仙台駅前の歩行者回廊に感心している。

 松島に寄り、奥の細道の芭蕉の旅に思いを派す。松島では何故か芭蕉は黙し、臨済宗の瑞巌寺に行っても発句しない。特に、瑞巌寺は最澄の高弟である円仁(794-864)の開基であり、円仁を開基とする東北の他の大寺では、必ず芭蕉は詠んでいるのに。
 
 例えば、平泉の毛越寺では「夏草や兵どもが夢の跡」。同じく中尊寺では「五月雨の降りのこしてや光堂」。出羽の立石寺では「閑さや岩にしみ入蝉の声」など。なお、松島現地の宣伝看板に、芭蕉作として「松島や ああ松島や 松島や」を方々に見かけるが、これは芭蕉への余りにもひどい仕打ちだと、司馬は怒っている。

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