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2016年9月 2日 (金)

モンゴル紀行

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http://realshozai.jp/blog-entry-458.html
 
 今日の街道をゆくは「モンゴル紀行」。モンゴルは、東洋史に現れる変な民族の国として、司馬が子供のころからの夢想の対象だったらしい。その後、大阪外国語学校(現大阪大学)の蒙古学科まで卒業しているから、筋金入りのモンゴル好きとも言える。
 
 1973年、モンゴルと日本の国交回復の翌年に、司馬はモンゴルを訪問した。当時、モンゴルへの直行便はなく、ソ連のハバロフスク、イルクーツクで飛行機を乗り継いで、やっと、首都ウランバートルへ到着した。
 
 現在のモンゴル国は、人口約300万人しかないが、国土は日本の約4倍強もある。畜産と鉱業が主産業で、輸出の95%は中国向け。歴史的には、13-14世紀、ジンギス・カンが興こしたモンゴル帝国が、中国はじめユーラシア大陸の大部分を支配したのが、広く知られている。
 
 だが、17世紀以降中国清朝の支配下に入って、モンゴルは急速に衰えた。司馬によれば、農耕民族と遊牧民族は、本質的に敵対関係にあって、中国人とモンゴル人はお互いをたいへん嫌うそうだ。結局、中国が意図的にモンゴルを駄目にしたとも言う。その手段は、ラマ教(チベット仏教)のモンゴルへの導入による梅毒の蔓延と、モンゴルでの中国人悪徳商人の搾取などによると。
 
 ソ連の革命の影響で、1924年世界第2番目の社会主義国として、親ソ的なモンゴル人民共和国が誕生し、中国との関係は一応切れた。だが、今度は日本の満州関東軍の圧力を受けるに至る。1939年、遂にモンゴル東部国境で、関東軍とのノモンハン事件が起きるが、スターリンが大量のソ連戦車隊を投入して、モンゴルは救われたと言う。
 
 その後、ソ連では1950年代にスターリンが批判され、全てのソ連圏では、スタ-リンの銅像は撤去されたが、司馬が行ったとき、ウランバートルにはスターリン像は、まだ健在だったそうだ。ノモンハン事件を恩義に感じたせいだが、1992年のソ連崩壊後に、社会主義を放棄してモンゴル国となり、1998年のNHKの映像では、流石にスターリン像は棺の中に保管されていた。
 
 司馬によれば、モンゴル語と日本語は、助詞があるなど構造が非常に似ていて、もし単語を覚えれば、日本の方言の感じで、モンゴル語はしゃべれると言う。ただ、何故か司馬の片言のモンゴル語は通じない。また、ウイキペデイアによれば、日本の多額のODAや、朝青龍・白鵬などの相撲力士の活躍、日本製中古車人気もあってか、近頃のモンゴル人は、日本へ大変な好感を持って居るらしい。
 
 人口の半分弱が住む首都の生活様式は変り、遊牧世帯もやや減ってきたが、ヒツジ1,200万頭、ヤギ1,200万頭、ウシ180万頭、ウマ200万頭、ラクダ30万頭を飼育するなど、牧草地の広さは国土の約80%もあり、依然として遊牧が付加価値の主体である。ゲル(包)に暮らし、家畜の糞を燃料とし、馬乳酒からビタミンCを摂り、ウマを自動車代わりに使うなど、遊牧民の生活スタイルは、昔から何ら変わっていないそうだ。
 
 司馬はモンゴル南部のゴビ砂漠を旅した。ゴビ砂漠は飛行機から見ると、火星の表面のように茶色の岩だらけに見えるが、地上に降りると実は花を敷きつめた草原だそうだ。飛行機は有視界飛行で、もし雲が出ると飛ばないらしい。南ゴビでは、10幕ほどのホテル経営のゲルと食堂が飛行場(ただの草原)のそばにあり、もし客があると、ウランバートルから従業員が同じ飛行機に乗ってくる仕掛け。
 
 空気は澄んで、とりわけ目が良いモンゴル人たちは、相当遠くの馬に騎乗した男女が識別できる。また、記憶力が良く一度会った人の顔を忘れないそうだ。モンゴルは1500m以上の高地で、夏でも朝は気温が初冬なみに下がるが、特に日の出と、満天の夜空の星は見逃せないとか。

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