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2016年8月26日 (金)

韓のくに紀行

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http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/soo1004.htm
 
 今日の街道をゆくは「韓のくに紀行」である。25年に及ぶ壮大な歴史紀行「街道をゆく」の第一回は、琵琶湖西岸の「湖西のみち」から始まったらしい。その際、司馬は遥かな昔、国境も定かでないころ、朝鮮半島から渡来した人々の痕跡に出会い、韓国訪問への思いが募ったと言う。また、司馬が住む大阪の地が、韓国ととりわけ関係が深く、街道をゆくに時々同行した友人たちも、結構、在日の人が多かったようだ。
 
 韓国と言っても広大で、司馬は特に4-7世紀ごろの朝鮮半島(上図)で、日本と関係が深かった歴史的な土地に絞って訪問している。それでも、得意の筆は大いに走って、紀行は長文であり、ウサギさんのブログへのまとめも難航した。そこで、例の如くNHKDVDの助けを借り、一刀両断?して次の数点に絞ってしまった。
 
 1971年、司馬は半島南端の釜山の北西30kmの金海に行った。ここは、任那(加羅、駕洛、伽耶も同じ)の国があったところで、4-6世紀のころ、日本の植民地的な領域であったとされるが、確かなことは判らないそうだ。ただ、倭人(日本人)が多かったのは事実らしい。
 
 この金海という土地は、朝鮮人にとっては、「金海の金姓」と言う本貫で有名とか。金は朝鮮で最も多い姓で500万人以上はいるらしいが、金姓にも諸流があって、駕洛王の「金首露」を遠祖とするのが、「金海の金姓」である。政治家の金大中や、作家の金達寿がそうで、年一回、一族7000人が集まると言うから、儒教精神はいまだに旺盛である。
 
 東南部の新羅慶州の美しい古墳を訪問したあと、慕夏堂に寄った。慕夏堂は、釜山に次ぐ南部第二の都市大邱の南西30kmにある名もない村。秀吉の朝鮮ノ役で、清正の武将で沙也可という人が、3000人の部下とともに、朝鮮軍に降伏した。その後、沙也可は朝鮮軍の武器の改革などに大いに貢献し、高官に列せられたが、引退後は慕夏堂に住んだと言う。ここの田園風景は日本そっくりで、村民は全員が両斑(士族)階級らしい。
 
 その後、倭館によった。倭館は大邱の北西40kmの洛東江河畔にある交通の要地。朝鮮ノ役で日本軍の兵站基地が設けられたのでその名が付いたと言う。ただ、1951年の朝鮮動乱のさい、ここに集結した北朝鮮軍3万人が、米軍のB29による猛爆撃で殲滅され、町は跡形なく破壊されたらしい。現在の町は対岸に移ったもの。
 
 最後に、西部の百済の旧首都である扶余に行ったが、ここには歴史的な遺物は何も残っていないそうだ。百済には中国南朝の仏教文化が栄えていたが、唐・新羅の連合軍に攻められ、日本に助けを求めた。日本が国家として東アジア史に登場するのは、その時から。ただ、663年、400隻・4万人の日本水軍は、白村江の戦いで唐軍に完敗する。
 
 その後、百済から日本への亡命者が相次ぎ、その数、万を数えたが、一度に2000人来たこともあったそうだ。中でも、王族の鬼室集斯という人は、天智天皇のとき、学識頭(大学総長)に任じられている。今でも滋賀県蒲生郡には、鬼室神社があり、命日には村人による祭礼が行われていると言うから驚きである。

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