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2016年8月 7日 (日)

陸奥のみち

Tosandoa_2
 
http://www.ichiro-ichie.com/kyukokumei/tosando.html
 
 今日の街道をゆくは「陸奥のみち」。陸奥には広義の陸奥と、狭義の陸奥との両方がある。「奥羽」と言うのは、現在の東北地方全体を指すが、陸奥の国と出羽の国を合わせたと言う意味。出羽は現在の山形県と秋田県を言い、陸奥はそれ以外の太平洋岸の東北地方のことで、実に広大な地域であった。
 
 ところが、明治の廃藩置県の前に、出羽と陸奥は上図のように分割されている。広義の陸奥は、狭義の陸奥(ほぼ青森)、陸中(ほぼ岩手)、陸前(ほぼ宮城)、磐城(ほぼ福島東部)、岩代(福島西部)に5分割された。司馬は、この狭義の陸奥と陸中の境あたりの太平洋に近い久慈街道(八戸~久慈)を今回歩いているが、断りなしに時には広義の陸奥に言及するので話はややこしい。
 
 出羽は、稲作地帯で日本海交易の恩恵も早くから受け、文化的・経済的にも進んだ地域であったが、広義の陸奥、特に岩手・青森は、稲作に適さず、太平洋航路の開拓が遅れたこともあり、長い間、未開の地であった。維新の際、会津藩の抵抗や、奥州が幕府側についた事もあり、薩長明治政府は「白河以北、一山百文」と東北地方を全く無視したと言う。むしろ、その後、北海道・朝鮮・満州の開拓に社会資本は投入された。
 
 司馬は、青森県東南端の八戸をまず訪問したが、羽田から八戸までの直行便があるのに、関西人として驚く。ところで、鎌倉時代の1219年、僅か8騎の武士が甲州を発して鎌倉由比ヶ浜から舟出して、とにかく八戸へ上陸した。その後、じりじりと広大な土地を切り従え、遂に陸奥・陸中を領する南部藩となったのである。陸中だけでも四国より広いと言うから、「三日月も丸くなるまで南部領」と言われたのも頷ける。南部家はその後八戸から盛岡へ移動する。
 
 秀吉が天下をとったころ、津軽にいた南部藩の家老が謀反を起こし、独立の大名となってしまった。以降、南部藩は津軽藩を極度に憎み、200年以上後の1821年、津軽侯の籠を襲撃するという相馬大作の事件を起こすに至る。一方、1664年、南部家の当主が病死したが実子がなく、養嗣子の取り決めもなかったので、改易の危機に面したが、幕府はこれを大目に見て、南部藩10万石を8万石に減封し、新規に八戸藩(2万石)を立てさせた。これを八戸の陰謀だとして、盛岡本藩は恨みに思い、4年後に八戸藩主を殺害する。
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 八戸は安藤昌益(1703-62、写真)の出身地でもある。江戸時代に日本が生んだ共産主義者の医者で、直耕者、つまり農民以外のいかなる支配者も寄生者も認めない。「殿様も、武士も、商人も泥棒である」と門人に言ったが、これがもし漏れれば即刻首が飛ぶが、かたくその秘密は守られたと言う。
 太平洋ルートの商業航路が開けたのは元禄時代で、上方から商人がどっと八戸へ押し寄せた。即座に商人は大地主となって農民を搾取する。藩も商人と結託し、農民がコメを食うのを禁じ、アワ・ヒエを主食とするよう命じた。この状況を目の当たりに見て、安藤の思想が生まれたと言う。
 明治になって青森県が生まれた時、八戸は岩手県から切り離されて、青森県所属となった。南部藩が佐幕だったので、新政府は嫌がらせをしたと言う。もっとも、青森県の東半分は旧南部藩と、会津戦争以降に移封された旧会津藩の斗南藩であり、新青森県では津軽衆と南部衆の喧嘩を、会津衆がとりなす奇妙な構図だったらしい。
 

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