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2016年7月25日 (月)

長州路

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%9D%91%E5%A1%BE
 
 今日の街道をゆくは「長州路」。司馬はシリーズ初期の1971,72年の両年、長州藩と薩摩藩の故地を訪ね、何故、両藩が明治維新の原動力たりえたのかの検証をしようとしている。「長州路」という街道が特にあるのではなく、長州各地という意味である。
 
 ネットによれば、司馬の「長州嫌い、薩摩好き」は有名らしい。ご本人も「司馬ナニガシが長州に来れば殺すと言う人がいる」と、大真面目にある京都の学者から注意されたと書いている。ただ、司馬は長州が嫌いなのではなく、明治陸軍長州閥総師の山県有朋や、乃木希典が気に食わぬようにも見える。特に、「坂の上の雲」では、軍神乃木も愚将として散々である。
 
 かって、長州藩は防長二州などと言われた。今の山口県を東西に斜めに切った東南部を周防と言い、山口・防府・徳山などがある。一方、北西部は長門で下関・宇部・長門・萩などが属す。かって、中国地方の主であった毛利氏120万石は、関ヶ原で敗れて防長37万石に押し込まれた。随伴した毛利家の家臣たちは、食うに困り農民となった。従って、長州は日本では類を見ない、農民のレベルが高い集団となったと言う。後の倒幕で奇兵隊が生まれる素地が既にあったのだ。
 
 この幕府への恨みは260年間も続く。埋め立てなどで公儀に知られぬように水田を増やし、塩は赤穂に続く大産地となり、和紙では全国の3割を占めるほど産業振興する。これらは、「防長三白」と言われ、幕末には実収100万石に達したと言う。
 
 下関(馬関)の壇ノ浦では、平氏とともに沈んだ幼帝安徳帝を祭った赤間宮を訪問し、維新後の初代宮司である白石正一郎に思いを派す。幕末、白石は下関一の豪商だったが、高杉晋作に惚れ込んで、奇兵隊の費用を一人で背負い込んで破産したと言う。維新後、その請求をしなかったので、長州一の清潔な人としている。赤間宮にも白石の碑はないそうだ。なお、幕府軍は奇兵隊と遭遇すると、戦わずに一目散に皆逃げたらしい。ともかく武士が平民軍に負けては、一生の不名誉になったからと。
 
 県庁のある山口市は、中世の大内氏の城下町。大内氏は中国地方と北九州を押さえた大大名で、山口は小京都と言われた。京都から京童を買ってきて、各町に6人づつ住まわせて、京ことばを流行らせたとも言う。関ヶ原で防長に移封された毛利氏が山口に入ろうとした際、幕府は交通便利な山口から、日本海側の辺鄙な荻に行けと指示した。隠忍260年、幕府の勢いが衰えたころ、長州藩は藩庁を山口へ無断で戻している。
 
 山口のあと、司馬は石見(島根県)の津和野から益田へ抜けているが、最後にとってつけたように、吉田稔麿のことに触れている。幕末の池田屋の変のとき、新選組の沖田総司と戦って死んだ若い長州藩士である。荻の吉田松陰の松下村塾(写真)では、高杉晋作、久坂玄瑞は、「識の高杉、才の久坂」と称され、「松下村塾の双璧」と呼ばれた。また、この2人に吉田稔麿を入れて松陰門下の三秀と言い、さらに入江九一を合わせて「松下村塾の四天王」と称されたそうだ。
 
 吉田稔麿は足軽の子で、12歳から働き始め、僅か10歳代でもう江戸と国元との飛脚を務めた。池田屋の変の際は、現場から逃げ出し、急を藩邸に知らせた。だが、引き留めるのを振り切って、再び修羅場に戻り、自分の春秋を捨てたと言う。それは「仲間への労り」であり、その後の天下の信を長州へ結びつけた一事でもあったと司馬は解説する。

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