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2016年7月 3日 (日)

大和・壷坂みち

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E7%94%BA
 
 今日の街道をゆくは「大和・壷坂みち」。司馬は、奈良県の地図を見ていて、青葉の壷坂山へ登って見たくなったそうだが、壷坂山というのは、我が家の最新の県別地図帳で、奈良県を探しても載っていない。だが、かろうじて壷坂寺を山中で見つけた。奈良市の真南約30kmのあたりである。その途中で、壷坂寺の北10kmくらいのところにある中世の商業町である今井町(橿原市)に、司馬はまず寄っている。今井から壷坂までは特に街道名はついていないが、今回、司馬は仮に「大和・壷坂みち」と名付けたらしい。
 
 知らなかったが、この今井というのは大変な町だったと。戦国時代には、「海の堺、陸の今井」と呼ばれ、「今井千軒」とも言われる濠が街を囲む大環濠集落である。自治権を獲得した都市で、江戸時代の街並み(写真)が、そっくり未だに残っている珍しい町とか。実はこの章の司馬の紀行文は極めて短く、NHKも困ったのか、「堺・紀州街道」と組み合わせて25分番組を構成している。ここでNHKが堺を採ったのは、今井との関係であろう。堺を代表する大商人の今井宗久は今井郷の出でもある。
 
 ところで、「xx千軒」と言う表現は、中世のかっての賑やかな町で、その後廃れたケースを指すものが多いらしい。有名なものに「福岡千軒」がある。備前(岡山県)の福岡村のことで、備前鍛冶の町として鎌倉時代には殷賑を極めたらしいが、現在は田のなかに碁盤の目のような道路跡が残るだけとか。他に「草戸千軒」がある。備後(広島県)の芦田川沿いにあった鎌倉・室町時代の大きな商業町だが、いつの時かの大洪水でポンペイのように消え、その後昭和の初めの発掘まで忘れられたと。
 
 司馬は、肝心の壷坂山には寄らず、近くの高取町に行った。東南約4kmの山中には高取城があるが、山城としては日本最大級の規模らしい。植村氏2万5千石の城だが、植村氏は家康よりもずっと古い徳川家の譜代の出である。だが、たまたま、植村氏と徳川家の凶事が何回か重なって、植村は縁起が悪いとされ、ずっと冷や飯を食わされてきた。1640年、やっと大和高取藩の大名に取り立てられるのに、6代150年の歳月を要したと言う。高取城は、山中にあったので明治初期の廃城以降放置され、明治20年頃自然崩壊したらしい。ただ、現在周囲3kmの石垣が残っているそうだ。
 
 この高取城について、司馬の短篇小説「おお、大砲」を読んだことがある。家康が、大坂城を砲撃するのに使った大砲(ブリキトース砲)6門が、高取藩に下賜され、これを大事に神のように守って、6人の奉行が代々禄を貰ってきた。250年以上やることと言えば、毎朝砲身を磨くことと、操作方法を復唱することくらいである。ところが、この砲に遂に出番が来た。幕末、思いがけず天誅組が高取城を攻めてきたのだ。権現様の大砲6門のうち、1門がやっと火を噴き、そのもの凄い音と砲煙で敵はひるんだ。弾は飛び天誅組の酒井という浪士の兜に命中し、酒井はひっくり返ったがすぐ起き上がった。その夜一晩中耳鳴りがして眠れなかったと言う。

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