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2016年7月 6日 (水)

明石海峡と淡路みち

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%87%8E%E6%9D%BE%E5%8E%9F#/media/File:Keino_matsubara_01.jpg
 
 今日の街道をゆくは「明石海峡と淡路みち」。司馬は1974年に明石から船で淡路島に渡っているが、その後、1985年には大鳴門橋が、1998年には明石海峡大橋が開通して、四国と淡路島と本州とが陸続きになっているから、淡路島の状況は様変わりであろう。更に、1995年には淡路島の野島断層などを震源とする阪神・淡路大震災が起こっている。まさにこの30年間の淡路島は、激動の時代を迎えたと言えるが、1999年に放映されたNHKの映像は時代を良くフォローしていて参考になる。
 
 司馬は明石の西の林崎の漁港にまず寄っている。明石鯛とか明石だことか言われるが、明石海峡や淡路島のまわりは、海流が激しいせいか、日本で最も魚がうまいところとか。明石から、播淡汽船で淡路島の松帆の浦に渡ったが、NHKによれば、明石海峡大橋ができる前は、夏季など乗船に2時間待ちだったと。
 
 淡路は小さい島(人口14万人)ながら、北の播磨、東の摂津、和泉、紀伊、西の阿波と同格の国であり、昔から朝廷の食糧庫として期待されたらしい。江戸時代は徳島藩に属し、明治以降は兵庫県になったが、この徳島から兵庫への淡路の所属変更は、明治3年の稲田事件に原因があると。徳島藩主の蜂須賀家と、淡路洲本城の家老稲田家の先祖は、秀吉の時代の同僚だったが、明治維新で徳島藩家臣が士族、洲本城家臣が卒族とされたことから、内紛がおこり、双方に多数の犠牲者が出たらしい。稲田家は遂に北海道へ移住開拓したと言う。
 
 司馬は、洲本の近くの紀淡海峡に面した由良の漁協組合長と面談している。ここでは素潜りで100人が働いていると。アワビ・サザエ・ウニなどで収入は悪くない。また、淡路島周辺は、タイ・ハモ・カレイなどの高級魚が多いので、規模は小さいが充分採算にあうと言う。現に由良の漁船は5トンに制限されている。一方、和歌山県はすぐ外洋と言って良く、船は15トンもあるらしい。紀州は何といっても徳川御三家であり、昔から熊野など水軍の大根拠地でもあって、淡路島も紀州の安宅水軍に併呑された歴史があるそうだ。
 
 ところで、淡路島はアカマツで有名である。特に島の西側の播磨灘に面した海岸の慶野松原(写真)は、5万本のアカマツが見事らしい。ところが、司馬が行ったころ、淡路島全体でマツクイムシが猛威をふるっていた。折から田中角栄の日本列島改造論華やかなりし頃で、日本中が不動産屋になって自然環境を破壊しているとして、司馬が嘆くことしきり。
 

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