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2016年6月27日 (月)

北国街道とその脇街道

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 今日の街道をゆくは「北国街道とその脇街道」。北国街道は関ヶ原から琵琶湖北端の木之本に出て、越前の今庄・武生・鯖江を経て福井に至る街道。また、司馬が脇街道というのは、北国街道の前に使われた古道の西近江路で、琵琶湖の北岸の海津から敦賀へ抜ける道である。
 
 まず、司馬は西近江路をたどる。江戸時代、日本海の北前船全盛のころは、敦賀でコメなどは降ろされ、陸路、海津(または塩津)に運ばれて、琵琶湖を船でわたり、大津経由で京や大坂へ届けられたらしい。そのため、琵琶湖の湖港の海津や塩津は大いに賑わった。ところが、明治以降の蒸気船の出現で太平洋航路が栄え、両港は急速に衰えて寒村になってしまったと。
 
 奈良時代、都を守るため、3か所の関所があったが、三関と言われ、鈴鹿、不破(関ヶ原)、愛発(あらち)である。愛発は越と呼ばれた今の北陸3県の勢力からの防衛のためだが、その場所ははっきりしないそうだ。この西近江路の敦賀に近い疋田のあたりらしい。
 
 敦賀は昔も今もシベリアや沿海州との窓口である。かっては、渤海の使節が定期的に訪れ、今はシベリアの木材がやって来る。江戸期には北海道からのニシンで賑わい、ニシン蔵が立ち並んだ。幕末、水戸天狗党776人が捕えられて、このニシン蔵に収容され、352人が処刑されている。敦賀の気比(けひ)の松原(写真)は、この忌まわしい事件が嘘のように美しい。日本伝統の風景というより、むしろ奇観でさえあると。
 
 敦賀から武生(福井に次ぐ第2の町でもとの国府)までの間には、大山塊があって、今は北陸トンネルが出来たが、昔は木ノ芽峠を越えるなど大変だったらしい。北陸において最も日本史に影響を与えたのは、この
大山塊だったに違いないと。
 
 司馬たちは、この山塊を避けて海岸線のルートをたどっているが、ここも昔は難所だったと。だが、紫式部の父藤原為時が、996年越前の受領になって、武生に赴任する際、娘時代の紫式部も意外にここを通っている。ただ、越前暮らしは都恋しさに気も狂うばかりだったと。
 
 一行は、武生でUターンして、北陸街道を琵琶湖方向に戻り、余呉湖(よごのうみ)に出た。ここは秀吉と柴田勝家の決戦場、賤ヶ岳にもう近い。
 

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