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2016年6月 7日 (火)

佐渡のみち

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%B8%A1%E9%87%91%E5%B1%B1
 
 今日の街道をゆくは「佐渡のみち」である。佐渡は、ご承知の通り、新潟市の西約50kmにある意外に大きな島で、面積は東京都の半分くらいもある。人口は公称?10万人だったそうだが、最近は6万人を切るらしい。
 
 丁度、巨人が東北に向かって、左足を前にずらせて両足跡を残した感じで、左足跡には大佐渡山地(最高峰金北山1172m)、右足跡には小佐渡山地がある。両足跡の間には、島としては珍しく広大な国仲平野が拡がり、コメが良くとれるそうだ。対馬暖流のお蔭で植物は南方系のものも結構多いと。

 1976年、司馬は新潟から両津郊外の佐渡空港まで飛行機を使っている。両津は国仲平野の東北端にあり、フェリーなどの佐渡の玄関口でもある。ここは両山地間のへこみの良港で、幕末、安政条約で新潟港が開港したとき、特に西風に弱かったので、佐渡の両津港に避難するとなっていたと。
 
 佐渡と言えば何といっても金山である。江戸時代初期に金鉱が相川で発見された。左足跡のかかとあたりで、江戸幕府の直轄領としての佐渡奉行所が相川に置かれた。写真は「道遊の割戸」と呼ばれる人力で山を削った跡である。「江戸を見たくば相川を見よ」と言われたほど繁栄し、一時は人口10万人を超えたと。金は右足跡のかかとに位置する小木から、越後の出雲崎か寺泊まで運ばれたらしい。
 
 多数の無宿(無戸籍者)が江戸などで捕えられ、地底の水替人足としてこき使われた。ただ、犯罪人は佐渡奉行の手に余るとして送り込まれず、親から勘当されたようなおとなしい若者たちが、数年の奴隷労働で命を落としたと言う。江戸時代末期には金はほぼ採りつくされ、1989年には三菱マテリアルの撤退で閉山している。
 
 ところで、佐渡で驚かされるのは、江戸時代から流行ったと言う能だと。人口あたりの能舞台の数では、ダントツ日本一らしい。これは、幕府直轄領は他と比べて年貢が比較的軽く、農民に余力があったせいではと司馬は推定する。
 
 なお、金山奉行として家康に重用され、佐渡金鉱を開発した大久保長安の私腹による失脚の話や、1652年幕府を震撼させた小比叡事件の辻藤左衛門の話、幕末の秀才官僚川路聖謨の話など、佐渡奉行に関係した人々の描写が面白い。どれも一巻の本になる内容がある。
 
 

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