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2016年5月17日 (火)

神田界隈

Fdrt
 
http://blogs.yahoo.co.jp/honmon1968/24724677.html
 今日の街道をゆくは「神田界隈」。神田は千代田区の北東部一帯の地名であり、終戦直後の1947年、東京市の神田区と麴町区が合併して千代田区が生まれたときの神田区域が該当する。神田xx町と頭に神田がつく町名が多いのはこの合併の名残りとか。
 
 この地域は、おおよそ皇居、京浜東北線、中央線で囲まれていて、JR神田駅は地域の東端にあり中心ではない。むしろ、中心地の古本屋街(写真)がある神田神保町あたりは、JRで言えばお茶の水駅が近い。ウサギさんが月に1-2回行く学士会館は地下鉄の神保町駅が便利である。

 学士会館のあたりは、共立講堂、一橋講堂、如水会館などがあるが、江戸時代は護持院ヶ原として有名な怖いところだったらしい。ここらは元々沼地で、家康が城下町を造るために盛んに掘割をしたが、その土で沼を埋め立てた。5代将軍綱吉が隆光という僧に広大な護持院をここに造らせたが、1717年の江戸大火で護持院は焼失した。跡地は日除け地として空き地になり、護持院ヶ原と呼ばれたと。
1857年、この地に後の東大となる蕃書調所が開設されている。
 
 神田は世界でも有数の学びの町といっても良いそうだ。多くの私学(明大、法大、中大、日大、理科大、共立女子大)が明治期に神田から興った。その理由は、江戸に圧倒的に多数の武士が居住し、100万を超える江戸人口の半分近くが武士か武家奉公人であったことにある。彼らの子弟は、学問と武芸を学ばなければならず、それらの私塾が神田に集中したと。
 
 お茶の水駅そばで神田川にかかる聖橋は、北の湯島聖堂と南のニコライ堂を結ぶところからその名を付けられたらしい。湯島聖堂は幕府の唯一の官学として栄えた。また、1891年完工したギリシャ正教のニコライ堂は、当時の目を見張らせる高層建築物で、ジョサイア・コンドルの施工による。一方、日本三大祭りの神田明神は、江戸時代歴代将軍の尊崇を受けてきた。ただ、祭神が朝敵だった平将門であったのが災いしてか、同じ三大祭である京都の八坂神社が、明治時代に旧官幣大社に指定されたのに、神田神社の社格は東京の府社に過ぎなかったと言う。
 
 神田と言えば、何といっても古本屋街であろう。司馬も大いに世話になっている。何しろ何かを書く場合、軽トラック一杯の古本を片端から買ったらしい。「坂の上の雲」のときは、日露戦争の名が付いた古本は、神田から姿を消したとの伝説がある。面白いのは、学術書出版の岩波書店も古本屋からスタートしている。大学を出たばかりの岩波茂雄は古書店を始めたが、友人の安倍能成を通じて、夏目漱石に「こころ」の出版を申し込み了解をとった。凄いのは、出版費用全てを漱石から前借している。
 

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