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2016年5月25日 (水)

本郷界隈

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http://sky-torisan.up.n.seesaa.net/sky-torisan/image/B0C2C5C4B9D6C6B2A4C8B6E4B0C9-2.jpg?d=a30
 
 今日の街道をゆくは「本郷界隈」。この本郷地区については、司馬の筆は実によく走り盛りだくさんだが、反面、意図的にか、地理的にも時代的に人物的にもバラバラで、レポートとして纏める立場としては、焦点を極めて捉えにくい。
 
 そこで例の手段で、NHKのDVDの助けを借りた。NHKの編集は、通常の「街道をゆく」は25分だが、これは2倍の50分番組なのに、バッサリと枝葉を切り捨て、東大(写真)と漱石関係だけに絞っている。NHKは余り好きではないが、映像化ポイントの押さえどころは、毎回流石である。そこでNHKを真似ることにした。
 
 世界で地方より首都に憧れるのは日本だけだと司馬は言う。ただ、江戸時代ではそんなことはなく、江戸は大名の登城行列くらいが見どころで、江戸見物に来る人などはいなかったらしい。状況が一変するのは江戸が東京になってから。欧米の文明を東京一点で受容し、全国へ配電してからだそうだ。
 
 明治新政府と大学で、多数の外国人がお雇いとなった。明治10年頃の工部省や東大の予算の1/3は外国人の俸給だったと。明治時代に日本に来た外国人教師は500人を数え、そのほとんどは本郷に住んだと言う。同時に、留学生を欧米に派遣して、漱石がラフカディオ・ハーンの後任になったように、順次外国人を入れ替えた。 
 
 加賀の前田家の100万石は大名中最大で、本郷の上屋敷は実に広大で10万坪あったと言う。明治初年、文部省は隣接する分家の冨山藩や大聖寺藩邸を合わせて一括買い上げた。明治9年、東大がここに移転するまでは、フェノロサ、ワグネル、モース、ベルツなどの著名なお雇い外国人が住んでいて、一画はあたかも小さな西洋のようであったらしい。
 
 この東京が文明の配電盤機能であった事情が良く分かるのは、漱石の小説「三四郎」とか。熊本から上京した東大生三四郎は、配電盤の周囲をうろついて、地方と東京の落差に驚き、眩惑されたり、自分を失いかけたりする。
 
 ところで、本郷は言うまでもなく文人の町である。本郷千駄木では森鴎外と漱石が、前後して同じ借家に住んだし、団子坂の上には鴎外が品川の海が見えたとかで観潮楼と名付けた家を構えた。本郷真砂町には坪内逍遥、正岡子規が住み、本郷菊坂台の下には樋口一葉が居た。ついでに、おサルさんも本郷の生まれで、名前の一字は地名から貰っているらしい。
 

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