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2016年5月 1日 (日)

島原・天草の諸道

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http://blog.goo.ne.jp/hisayuki1942/e/93649c82461cdafc078c334b3185e0e6
 
 今日の街道をゆくは「島原・天草の諸道」である。1638年春、島原半島南端の原城(写真)にこもった島原・天草のキリシタン信徒3万7千人は、幕府軍に皆殺しにされた。多くの女性・子供・老人が含まれたが、遺骸は弔われることなく長く原城跡地に放置されたと言う。
 
 司馬によれば、この「島原ノ乱」は宗教一揆と直接の関係は薄く、実は過酷な領主の圧政に耐えかねた百姓一揆だった。一揆を点火させ束ねるためには何らかのインセンティブが必要で、16歳の少年天草四郎や、キリスト教徒などが使われたとする。
 
 島原半島は、戦国時代、キリシタン大名の有馬氏が領主で、切支丹が多かった。1616年、徳川幕府はここに松倉重政を4万石の小大名として封じた。松倉重政は変わった人で見えをはり、敢えて10万石の過大な賦役を江戸に依頼した。更に、有馬氏の日野江城を使わず、身分不相応の巨大な島原城を新築し、ルソン(フィリッピン)攻略まで計画して、夥しい火器や船を調達したので、島原農民の困窮は限界に達していたと言う。
 
 1625年、松倉重政が3代将軍家光に謁見したとき、切支丹に手ぬるいと叱責されてから、猛烈な切支丹弾圧が始まる。1630年、子の勝家が継いでからは一層凶暴となり、遂に1637年秋、天草との連絡口の口之津村で蜂起が起った。島原の農民は続々上記の原城に籠城し、一か月後には海を渡った天草の農民約3千人も合流する。島原の場合、村民全員が参加したので、事件後、村々は全て空き家となり、全国からの入植者を募ったと言う。
  
 原城を訪問した司馬は、近くの海中に白い洲を見つける。世界でも3か所しか見られない珍しいリノサムニュームという紅藻類で、その死骸は白い砂のようになると言う。十字架の旗のもとに死んだ、原城の白装束の3万7千人の霊と、気分として重なってしまったと。

 本土から天草諸島には、1966年に開通した天草五橋で渡れるが、司馬は上記の口之津から天草下島の鬼池への7kmをフェリーで渡っている。現在、島原は長崎県、天草は熊本県に属してはいるが、歴史的・地理的・文化的・経済的には、島原・天草は一体と見た方が良いらしい。明治初期、天草が長崎県ではなく熊本県に属したのは、過去に天草が肥後国だったことを重視した官僚のミスジャッジだったと。
 
 戦国時代、天草は5人の小領主に支配されていた。南蛮船貿易の利を求めて宣教師を招いたので、切支丹の数は激増し、江戸時代を通じて人口も異常に増えた。豊後の大友氏、薩摩の島津氏などとの接触や、小西行長・加藤清正との戦いなどを経て、天草諸島は遠い肥前唐津城主の寺沢仁高に与えられる。
 
 寺沢氏は天草下島の北西端に富岡城を築いて城代を駐在させた。天草は水田が少なく、コメの実高は2万石以下なのに、表高4万2千石と背伸びしたので、農民が苛斂誅求され続けたのは、島原そっくりである。ところで、関ヶ原の戦いで小西行長が刑殺され、多数の切支丹小西浪人が生まれたが、天草に5人の小西浪人残党が住んでいた。彼らが天草一揆の前年から、聖者天草四郎の奇説を言いふらし始めたのである。

 1637年10月、島原で乱が発生すると、それに呼応して天草でも農民が立ちあがり、島原からの応援を含めて1万人以上で富岡城を包囲する。一方の富岡城側は唐津からの応援1500人を得て徹底的に籠城防戦した。しかし、天草農民側に形勢判断の甘さが出て、すぐ陣を引き払って一か月後に島原勢と原城で合流するに至る。

 その後、1802年、驚愕の事件が起こった。幕府の天領天草に隠れ切支丹が316人もいるのが発見されたのだ。また乱が起こるのかと皆とっさに思ったが、念のため、踏み絵をさせると全員無邪気に踏んだのでほっとした。「まじないなど、決していたさぬよう」と諭して一件落着したと言う。
 

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