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2016年4月18日 (月)

南伊予・西土佐の道

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%92%8C%E7%94%BA%E5%8D%AF%E4%B9%8B%E7%94%BA
 今日の街道をゆくは「南伊予・西土佐の道」。伊予は愛媛県、土佐は高知県だから、南伊予・西土佐は、まさに四国の西南地方であり、多分、多くの人にとって一番馴染みの少ない僻遠の地であろうか。ウサギさんは、特に西土佐に興味を持って読んだが、何と伊予から土佐に少し入ったところで、「土佐には一個の独立した気風と人文がある。いつか稿をあらためて書きたい」でストンと終了。調べると、その後の「檮原(ゆすはら)街道」の巻で西土佐は改めて登場する模様。

 伊予と土佐は背中合わせだが、その風土は全く異なるらしい。江戸時代から俳句が盛んであった伊予は、商業が発達して豊かであり、言葉もおっとりしている。片や土佐は政治や武芸を好み、農業中心で貧しく、言葉も乱暴であり、飢饉のときなど時々伊予に乱入したりしたと。
 
 江戸時代、土佐は土佐藩20万石1藩のみだったが、伊予には8藩もあった。中でも、伊予松山藩15万石、宇和島藩10万石が大きい。幕府の長州征伐のさい、多くの藩が理由を作って参加しなかったが、伊予松山藩は律義に莫大な軍費を捻出して参戦し敗れた。戊辰戦争では会津・桑名と並んで朝敵とされ、無抵抗の松山を土佐藩兵が占拠した。
 
 明治の廃藩置県の際、旧賊軍の藩は嫌がらせを受け、盛岡は岩手県、金沢は石川県など、県名と県庁所在地名を変えられたが、松山の愛媛県は古事記の愛比売(えひめ)から取られた。実に粋な言葉で、「いい女」などと言う行政区名は世界に他に例がないと。

 松山の南西15kmくらいのところの山中に大洲(おおず)がある。6万石の旧城下町であり、ハゼの木から採る蝋の集産地だったところ。この町には、狭い路地など明治のあらゆる面影が良く残り、映画のロケ地としても有名らしい。
 
 更に南に10km位行くと宇和町の卯之町(写真)に出る。ここも古いものが良く残っていて、明治15年の開明学校というのが、現存する日本最古の小学校建物とか。当時の教材などが展示され、その紹介が実に面白い。この町には江戸末期の洋学者で、シーボルトの高弟二宮敬作が生涯、町医者をしていたらしい。
 
 卯之町の南5kmに宇和島がある。宇和島藩は殖産興業と商品経済に力を入れ、実に豊かであったと言う。卯之町の商家には、豊かさを表す「ウダツ」が未だについていると。蘭学も盛んで高野長英が匿われ、村田蔵六(後の大村益次郎)が居た。シーボルトの娘イネは、シーボルトの帰国後、二宮敬作が預かり、村田蔵六がオランダ語を教えたと言う。
 
 宇和島藩主は伊達家の出である。豊臣秀吉が、奥州の伊達正宗の長子の秀宗を、猶子としたことから生じた。関ヶ原のあと、家康の決断で秀宗は宇和島に封じられる。以後、伊達家は宇和島藩を見事に経営し、幕末の開明な藩主伊達宗城を迎える。宗城の理想は、10万石の小さな藩をヨーロッパ風の産業国家にすることだったと。ペリー来航後僅か3年で見よう見まねで蒸気船を造るに至る。
 
 

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