« 大磯あたり | トップページ | 馬洗川 »

2016年3月23日 (水)

芸備の道

Nature01_athumb300xauto5

 
miyoshi-kankou.jp/wp-content/uploads/2013/03/Nature01_a-thumb-300xauto-5.jpg
 今日の街道を行くは「芸備の道」である。「芸備」とは、安芸(広島県西部)と備後(広島県東部)のことで、要は現在の広島県を言う。広島県は広いので、3泊4日の日程から、司馬遼太郎は吉田と三次の2か所のみを選んだ。吉田は広島市の東北約40kmに位置するが安芸に属し、三次は更に東北に約25km行った備後である。この三次はともかく、吉田は広島市に近いので川は当然瀬戸内海に流れると司馬は思ったが、実際は日本海へ流れていたそうだ。ちょっと信じられないが分水嶺は広島市の僅か東北20kmの上根(かみね)というところにあり、そこから延々150km流れて日本海に注ぐと言う。日本地図を見ると、中国山地は中国地方の真中を東西に走っているから、このルートだけの特別な事情?なのかも知れない。

 吉田町は毛利元就(1497-1571)の地である。毛利氏はその祖が鎌倉期に神奈川県厚木からきて、吉田盆地の地頭となった。元就の時代に近隣を合わせ、最盛期には山陰・山陽14か国140万石を有し、織田信長と拮抗した。輝元が当主のとき、関ヶ原の戦いに敗れて全領土を没収されたが、支族吉川氏のとりなしで、長門・周防40万石を貰って現在の山口県一県に閉じ込められた。家臣団の全てが付いて行ったが、明治維新の際に活躍した桂・高杉・山県など長州人の名は、ことごとく吉田周辺の地名として現在も残っているそうだ。
 
 元就は吉田の地に郡山城という山城を築いた。1540年、出雲の尼子氏は3万の軍勢をもって吉田に攻め入った。毛利勢の戦闘員は2千4百に過ぎず籠城して徹底抗戦した。その際、食糧もろとも百姓の家族8千人全員も城に入れたと言う。この一致団結策が功を奏し、大内氏の援軍もあって勝利したらしい。一方、安芸門徒で知られるように、安芸は中世から浄土真宗の盛んなところである。ただ、加賀などの一向一揆のような事態にならなかったのは、毛利元就の撫育策が大きかったと司馬は指摘する。なお、ウイキペデイアによれば、1976年の調査で広島県民の57%が真宗門徒だったらしい。

 話は三次市に進む。三次盆地では江(ごう)の川本流の可愛(えの)川、及びその支流の馬洗(ばせん)川、西城川、神野瀬川が交わる。河川の合流により夏場から秋にかけ霧が生じやすく、霧の町と呼ばれる(写真)。三次は珍しく「みよし」と読むが、語源は朝鮮語の「水村(みすき)」だと司馬は推定する。ここは古墳がやけに多いところで、古墳時代に朝鮮から大勢のタタラ族(砂鉄製造集団)が、日本海を渡って江の川を遡ってきたものと推定している。三次周辺の山々は、砂鉄を取りつくした禿山の跡に樹が再生したもので、明治のころまで鉄を産したと。

 関ヶ原の戦いで毛利氏が追われたあと、芸備50万石を領したのは、秀吉の子飼いであった福島正則である。加藤清正とともに、家康側に寝返った正則は、関ヶ原でとんでもない大働きをした。「家康に天下を馳走したのは俺だ」と公言し、豊臣秀頼に変わらず臣下の礼をとって見せ、家康の神経を逆なでした。家康の遺言で1619年改易され信州に配流される。その後は浅野氏が入り、明治維新まで穏和な藩風が続いたと言う。なお、福島正則については、本ブログの「改易」(2015.8.30)と、「小布施」(2015.9.14)でも書いている。


 

« 大磯あたり | トップページ | 馬洗川 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 芸備の道:

« 大磯あたり | トップページ | 馬洗川 »

無料ブログはココログ
2019年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30