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2016年3月13日 (日)

濃尾参州記

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http://www.geocities.jp/katoshiro3594/owari_no_shiro/nagoya/nagoya.htm

 さて、また、「街道をゆく」シリーズである。今回は司馬遼太郎が1996年急逝する直前まで書いた「濃尾参州記」で未完である。濃尾参州とは、美濃(濃)、尾張(尾)、三河(参)のことであり、現在の岐阜県、愛知県をカバーする。

 織田信長は今で言う名古屋人である。那古屋の名は荘園として鎌倉時代に既に現れているそうだ。小さいながら城もあり、信長の父の信秀が奪取して織田氏の持ち城の一つになった。徳川時代の初頭、那古屋に近世城郭(写真)が築かれ、表記が名古屋に統一されたと言う。

 信長の居城清州城は、今のJR名古屋駅の北西約8kmに位置した。一方、弱冠26歳の信長が4千の兵を持って、東海の雄、今川義元2万5千の軍を破った桶狭間は、名古屋駅の東南約12kmにある。信長が奇襲の朝に祈願したという熱田神宮は、名古屋駅の東南約6kmに位置し、地図を眺めると、この3地点は東海道線に沿って一直線上に並んでいる。

 桶狭間の窪地には、現在、藤田保健衛生大学と附属病院が建っている。藤田啓介という生化学者が自費で開校したと言う。ところで、ここの眼科の馬嶋教授は並みの眼科医ではないそうだ。先祖の馬嶋眼科は室町時代まで遡るというから古い。名古屋の西の大治町にある馬島(何故か嶋でない)明源院という寺院は、日本最古で最大の眼科病院だったと。患者は全国から来たため門前町ができたそうだ。曽野綾子も先生の手術を受けているよし。

 三河の矢作川のほとりに味噌屋があり、蜂須賀小六が日吉丸(秀吉の幼名)を従えて泥棒に入ったという言い伝えがあるらしい。二人は逃げるとき、重しの石を井戸に放り込んで、井戸に落ちたようにだましたと言う。小六はその後出世して、阿波と淡路合わせて26万石の大大名になり、子孫の茂韶は明治以降、侯爵・貴族院議長などになった。茂韶が単独で明治天皇に拝謁した際、応接室で待っていると、紙巻きたばこが置いてあり、何気なく何本かをポケットに入れた。倹約家の天皇にはそれが分かり、「蜂須賀、先祖は争えんのう」。

 三河の矢作川を遡った支流の巴川沿いに、松平という地があり、家康の祖先の出身地である。家康が岡崎で生まれたころ、父の松平広忠は三河の1/3ほどを領していたに過ぎない。父の生前でも、家康は強大な東の今川、西の織田の人質として、手毬のようにやり取りされた。ただ、三河者の一徹な律義さが家康一代を貫く一大資産となったらしい。しかし、三方が原の戦いで、家康は武田信玄の挑発に乗って大敗し、浜松城にかろうじて逃げ帰った。このあと、信玄は急死するがーー。ここで話は突然終わる。

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